素粒子は粒子であり・波である---そうなんですか(笑) しかし、そんなことでビックリしていてはいかんぞの。
ビッグバンから宇宙は始まったというから、なんですとぉぉとビックリしたらビッグバンの前にインフレーションがあったか言う(笑)
最近はブラックホールは多数発見されているが、ブラックホールは裏でホワイトホールにつながっているのだという妄想もある。
宇宙は我々の宇宙だけではなかったというから、ほーーーう、他の宇宙はどこにあるのかしらと思うと互いに分離されていて何も繋がらないとかいう。それって ないのと同じじゃーーん。
宇宙はビッグバンで膨張した後に、今度は収縮に転じてビッグクランチになって消えるとかいう妄想もある。
そしたらビッグバンとビッグクランチを繰り返すのだとという振動宇宙論なんてのも出た。
ビッグバンとビッグクランチを繰り返しつつ、宇宙は成長するとかいう。今は第47回目のビッグバンだとかいう。どうして47回鍋・・・・それは、その主張をする人が47歳だからである。(笑) どーーや。
こういうの 妄想だろ(笑) 物理の理論ではないわな。
屁理屈を思いつく、妄想を展開する。それは人間の特徴だ。ニャンコは妄想しない。たぶん。
本能が壊れた動物である人間は妄想するという機能を持つのである。偉い人が「人は考える脚である」と言った。なるほどなあ。脚には脳みその機能があるんだなあ。
ちがーーーう!! 考える葦 であって 考える脚 ではニャンコ。ちなみにワタクシは痛風で脚が痛いの(´・ω・`) 脚というよりは足だね。
つまり、物理学者の発想は妄想だ。初めは妄想だ。それが閃きと称賛され、妄想が理論へと昇華する場合もある。ない場合もある。
物理の理論は初めはほとんどが仮説だ。分かりやすく言うと妄想だよよよん。
と、考えた時に、ではワタクシに妄想力はあるか。そこが今日の論点である。どーよ。いや、テキトーに言うだけなのね(笑)
ワタクシは小学校の頃、先生が教科書の内容を黒板に書き、それをワタクシはノートに書き写しというスタイルで学習した。中学校、高校でもそうだった。そして予備校でもそうだった。大学でもそうだった。
このスタイルの学習は基礎的な知識を得るには役立つ。書いて覚える。書くことに意味がある。
書かないで単に見ているだけでは何も頭に染み込まぬ。
よってに、なぞるという意味での学習の手法としては妥当だと思っている。教科書を読むだけで理解できるワタクシではないのであるだぎゃす。
分かるということは最低でも見ないで書けることだ、とワタクシは予備校での数学の講師に教わった。どっかの大学のセンセイがバイトしているとかの。
基礎的な知識を得る事が大事である、基本は繰り返せ。それはプロ野球選手でも同じだ。基本を繰り返す。カラダがその動きを覚える。染み込ませる。
受験生・大学生は先ずはなぞる。基本は見ないでも書けるレベルだ。丸暗記しろという意味ではない。見ないで書けるというレベルがどういうもの分かる人は分かる。集中して地道に勉強を続けていれば自然とオツムに染み込むのである。どーーや。
しかーーーし、それは決して妄想力を鍛える事とは違う。もちろん、基礎的学力がなければ何かひらめいても、それを展開・延伸することはできまい。そこだで。
20世紀の天才物理学者と言えば名前が出てくるのはアインシュタインである。しかし、学業成績は芳しくなかった。お陰で研究者として大学に残れず。
しかし、アインシュタインは自らの発想を形にするためには数学の何かが必要だと悟った。リーマン幾何学である。それを友人のグロスマンに習った。閃いた、アイデアが出た・・・・だが、形にするためには数学が必要だ。そこだで。リーマン幾何学を学び始める。友人に数学者のグロスマンがいた。大学の同級生であるのだった。
閃きでも妄想でも理論として形にするためには数学が必須だ。閃きも妄想もワタクシにとっては同じだ。
数学が出来て物理もできる・・・ そういう超・便利なオツムがあるとアインシュタインほどの苦労はしなくても業績を残せた・・・場合もある。
量子力学に多大な貢献をしたパウリ、ディラックは数学もできる・物理もできる。
パウリの排他律で知られるハゲでデブのパウリ。19歳で一般相対論のモノグラフを書いた。それをよんだアインシュタインが感激したそうである。こんな若者が・・・ということで。
パウリの排他律は周期律表をかなり解明したが、それはパウリの閃きであって理論的に導き出したのではない。そう考えると辻褄が合うというレベルであって理論は背後にある。それが明らかになったのは数年後である。
ディラックはイギリスの大学で電気工学を学び、卒業してもロクな仕事につけずケンブリッジに奨学生として入り、数学を学び・物理を研究し。オックスフォードだったかな。忘れた。
パウリは神童がそのまま天才に成長したかのようなタイプだが、ディラックはそうではない。奇抜なアイデアを出す。パウリはディラックを称して、アクロバティックな手法と言った。
学習は なぞる 事を基本とする。しかし、その次は・・・妄想だ。閃きも妄想だ。学校では、なぞる 事で終わる。妄想を持つ、妄想を形にする、そういう仕事ができる人たちは限られて入るものの、自らの妄想を制限する必要はあるまい。
妄想という言葉が嫌いならば、想像とでも言う。自らの想像に制限をかける必要はない。ちみいの愚脳でね、そういう制限をなくせば 想像力は膨大になる。気がする。
自らの能力に制限をかけることはなかろう。妄想しろや、想像しろや。葦であっても考えろや。そこにこそ、人類がニャンコやワンコロやらとの違いがあるのである。 どーや。
だがな、想像、妄想は自由だが、公序良俗に反する行動はするなや。捕まるで(笑)