ワタクシが10,30代の頃は中上健次の小説を読んだ。他にも丸山健二、他の純文学小説を読んだ。週間の漫画も読んだ。漫画・ゴラクも読んだ。犬と熊が戦う漫画が好きだった(笑)
その中上健次が「混乱の振幅を広げよ、とランボーは言った」とエッセイで書いた。ワタクシは意味は分からぬが、その言葉が記憶に強く残っている。
ランボーって誰さ? 知らないし興味もない。だが、混乱の振幅を広げよ、という言葉が何がしかの強烈な印象をワタクシに残したのである。
そういう事をさっき思い出した。未だにランボーに興味はない。混乱の振幅を広げよ、とはどういうことなのか、解説も知りたくない。これはワタクシ自身が意味を捉えねばならぬ。
ここだ。
考えるというか、何かのトリガーになる言葉、というか。そこだ。
これこれは それそれ という意味です、という解説は要らない。テスト用に覚えるものでもない。自分で考える事だ。
混乱の振幅を広げよ、とはどういうことか。うむ。知らん。分からん。混乱はないに限るとワタクシは思う。混乱がなく静かな人生、穏やかで和やかな日常である方が良い。
ならば、混乱の振幅を広げよ、とはどういう意味か。
知らん。分からん。混乱は無い方がよい。
だがワタクシは「混乱の振幅を広げよ」という言葉か愚脳にこびりついている。ワタクシはIQ88の愚脳である。愚鈍な脳みそを愚脳という。一を知って十を知る便利なアタマの真逆であるととらえられたい。なんちゅーて。とらえられたい、ってのは とらえてくれ、って意味な(笑)
中上健次が亡くなって四半世紀ぐらいは過ぎたのか、忘れた。私小説、純文学の分野でワタクシの中では傑出した作家である。いまさら作品を読み返そうという気力はない。だが、中上健次の小説世界の社会は・・・・ある種の現実である・・・・作家の想像力で描いた社会ではあるが・・・・ある種の現実である、と感ずるのである。
混乱の振幅を広げよ、とランボーは言った、と中上健次は書いた、のをワタクシは読んだ。中上健次がランボーの弟子であるならばワタクシはランボーの孫弟子である。
どや。それ言ったら中上健次の小説・エッセイを読んだらランボーの孫弟子になるってか、ちみぃ。。。 それは単細胞すぎるやろバカタレリ。 うむ。
いや、言いたいことはな、意味は分からなくても印象深い言葉はあるってことだ。
混乱の振幅を広げよ・・・・・・ テキトーに解釈する、妄想する、ならばだ。
萎縮するな、縮こもるな、凹んでばかりいるな、・・・・という妄想も可能だ。
そういうことだ。妄想だ。物理も妄想だ。自然科学、社会科学、人文科学なども人のオツムを駆動するものは妄想だ。
妄想が足りないのだよ、若者らよ!! 知らんけど。