考え方。例えばコンピュータ言語でオブジェクト施行というものがある。それはどういうものかは解説・説明のサイトを読めばいいとして、自分ではどのように理解するか、そこだ。
ワテが学生の時の先生が、教授だけど、難しい理論とか話であっても自分の言葉に置き換える、そういう試みをすれば理解が進む・・・場合があると言うとった。
その教授の授業の中で一番、ワテの記憶に残り印象深い話であった。
そこだな。
オブジェクト試行というか志向というか、捉え方はいろいろあるだろうが、コンピュータ言語でC++の場合にワテが考えたのは、ようするに使いまわしの手法だ!! と考えた。
人が一度作ったものを、使い回すにはどうするか。そこだろ。そういう視点で見ればTemplateだって使い回しの技術だし。オーバーロードにしても使いまわしの手法だし。
ものの考え方としては、そういうことだ。オブジェクト思考の説明に、カラスがカーと啼くとか犬がワンと吠えるとか・・・その手の説明では僕はまったく理解が進まなかったのだが、これは使い回しの手法だ!! と勘づいてからは理解は進んだと思っている。
物理にしても、何か、そういうものが、ある・・・はず。素粒子論の本を読んでいると。。。入門書だけどね。なんで、そうなるの、それはどういうことなの? とか疑問は次々と出てくる。
ところが類推、類似とかに着目すると意外と、ははーーーん、と思う事はある。類似性ってのに注意するってのも大事だね。
例えば水素原子は基底状態にある時に外部から一定以上のエネルギーを与えると励起状態になる。この励起状態の水素原子は基底状態の水素原子とは別の粒子である・・・・とは考えない。だが、そこは・・・うむうむ。
He原子は電子が2個。その電子2個が同じ軌道にある。K殻には2個まで入る。しかし、パウリの排他律が効く。つまり、同じ状態に電子は一個しか入れない。ではHeの2個の電子はパウリの排他律を満たさないのか? 満たすのである。2個の電子はスピンが違う。電子のスピンは値が二つであり、Heの二つの電子はスピンが異なる。なので一つの状態に一つの電子がある。
そういうばあいには、スピンが上向きの電子と下向きの電子は違う粒子なのか? という疑問が出る。電子である・・・ということに変わりはない。だがスピンが違う。
水素原子は励起状態でも水素原子である。電子はスピンが上と下で逆であっても電子である。
では、ハドロンはどうだ。メソンはどうだ。・・・というように想像が広がる。
陽子を高エネルギーにして試料にぶつけて、そこで陽子・中性子の励起状態がハドロンとして観測される。。。というときに、それって陽子の励起状態である、とは言わない。中性子の励起状態である、とは言わない。新粒子として解釈される。
さらに、そいつらが共鳴を起こす。・・・ ワケワカメですね。
だが、ここでハドロンは何かの粒子の励起状態である、と捉えるとワシは少し納得する次第である。
水素原子は励起状態でも水素原子である。・。だが、素粒子の分野ではそう考えない。陽子が励起状態になってハドロンの〇〇として観測される。さらに、それらが共鳴を起こす。新たなハドロン、メソンが登場する。
しかし、結局は崩壊して陽子に戻る・・・
このような話を入門書で知ったが、ハドロンは結局は陽子、中性子の励起状態がそう観測されているのである・・・と考えるとワガハイは少し納得する。
ハドロンは共鳴する。それか新たな粒子として観測される、というか解釈される。そう考えると、ワケワカメ状態から一歩抜け出した自分であり、なんだか、すこしだけ進んだ気がする。
間違っていたら・・・知るかよ、である。
この励起状態はいろいろと出てくる。
レオンレーダーマンは「詩人のための量子力学」で、素粒子は真空の泡立ちであると書いた。
日本の物理学の重鎮の佐藤文隆はエッセイの中で、場の振動モードを粒子と言いくるめるのが場の量子論だ、と書いた。
ワテは 場の励起状態が素粒子である、と想像した・・・受け売りだけど(笑)
つまり、オブジェクト思考は 使い回しの手法である、と自分で捉えることができた時点で半歩は前進している、と考える。
素粒子論では、励起状態が特定の素粒子と解釈される・・・と捉えると何だか少し進んだ気分になる。
なんだかワケワカメな状態から抜け出るには、自分の言葉で言い直す、置き換える、それがワテが大学で学んだ大事な事のトップである・・・気がしている。知識はいいんだよ。常に収集する姿勢があればいい。だが、それを知恵にするにはコツがいるんだ。知識は収集するものだ。それを活かすには知恵が必要だ。
知識は豊富だが知恵はない・・・・・という連中が多すぎる。。。テキトー (笑)