エライさんが外出自粛を推奨している。緊急時なので外出禁止令とか強制力のある事ができないのは日本国憲法も絡む。ここらも考えると憲法改正もすべきだと思う。すると、パヨクが戦争準備するのかと脊髄反射するだろな(笑) そいつらも新コロは分け隔てなくかかる。
で、朕は既に10年来、外出自粛している。時代がやっと朕に追いついたのである。だいたい感染者の中でも、Night ClubsやHostess Bars などで感染した連中は同情する気にはなれぬ。カネがあるバカと芸タレのバカは感染しても同情はしないもんね、わし。貧乏人のやっかみである。
最近は脊髄反射で国や行政がやることに対して文句だけ言う政治家や芸タレがいて腹が立つ。政治家ならマシな仕事しろ、芸タレはこれを利用して知名度あげようってやめろ。みぐるしい。ラ・サールとか村本とかの発言を紹介するだけの記事を書くスポーツ紙は・・・絶対に買わん(笑)
で、暇なのでYoutubeで昔のスポーツものを見た。見ると感動するのが昭和50年頃の大相撲である。天才・輪島 vs 怪物・北の海。この輪湖時代の2年間は実に予は大相撲に魅了されたのであった。
初めは天才・輪島が怪物・北の湖を左下手投げで転がす。北の湖にとっては先輩横綱を超えねばならない。輪島にとっては後輩横綱に負けてなるものか。北の湖に勝てなくなったら引退だな、と輪島は言うとったらしい。
哲学者のニーチェは梅毒で死んだが、言うことは実に単純明快であった。後輩は先輩を超えよ、子は親を超えよ、弟子は師匠を超えよ。それは同時に先輩は後輩に遅れをとるな、親は子に追い越されるな、師匠は弟子に超えられるな、を意味する。
社交辞令では、私はついにあの先輩を超えることができなかったですね、というのはいい。そういうのは葬式の弔辞で言うのもいい。
先達が作った道を楽して歩いただけで、さらに、その先に道を作り続けようとしないボンクラなどはニーチェでも読め。予は読んでないが。
初めは輪島に勝てなかった北の湖が2年後には輪島に勝つようになった。輪島の年令による衰えと若い北の湖の馬力が同時に起こっただ、と説明するのは安易だ。しかし、朕は北の湖の技量が伸びたのだ、と捉えておく。
天才・輪島、怪物・北の湖の輪湖時代は麻呂にとって相撲史に燦燦と輝く時代だったのである。
切磋琢磨を体現していたのである。既に二人共 故人である。なむぅ。
感動するのは野球にもある。昔の作新学院の江川の動画を見ると感動する。涙が出る。なんでか、知らん。球が速いからか。それもあるが、それだけではない。貧打・作新学院で一人だけ目立ったとか、チーム内で浮いていたとか、そういう話を知ったからか。そういうの知らなかった頃も感動した。速い・・・のは要素の一つではあるが。これはもう江川像を作ったスポーツ紙のせいか・・・違うなあ。
江川の投球フォームは独特だ。未だに江川のフォームで投げる投手は出てこない。あれはな、天才の資質なのだよ。野茂やロッテ・村田なども独特のフォームだ。共通しているのは腕を振り回して投げる。江川のフォームはバックテイクが小さく腕を後ろから大きく振り回すというイメージではない。腕は大きくしなり、豪速球を生む。このバックテイクが小さいというところが打者から見るとタイミングを捉えにくいのではなかろうか。
その江川の投球も巨人引退の年の2,3年前はフォームがダメになった。昔の柔らかいフォームが消えて、デブで腹が出た不格好な投手になった。それでも引退した年に13勝したのだから、ある意味では怪物ではある。そして、感動はなくなった。
もう一つ感動する・・・・高校ダンスで富岡とかいう、登美丘か、大阪の府立高校が2017年にバブリーダンスで世間を席巻した。石鹸で手を洗おう。
これもドキュメンタリーとかYoutubeでの動画とか見ると感動した。今でもたまに見ると感動する。なんだろな、この感動は。
昔、キャンディーズの田中好子が何かのCMで「働く人の汗が好き」とかいうの思い出した。これに習っていうと「一生懸命な人って好き」ってことになろう。
登美丘のバブリーダンスも一生懸命さ、全力で踊っている、そういう姿勢を感じる。だが、それだけで感動はしない。何かが、そこにあるのだ。麻呂はそれが何か今の所わからぬ。
登美丘の2017年のバブリーダンスだけが持つ独特の何か、ワシはそれに魅了されている。だが、それが何か? わからぬ。ヒントは衣装かもしれないなと最近は感づいている。
そのバブリーダンスを結婚式で余興として披露するのもYoutubeにいくつかあって、見ると感動するのである。一心不乱に踊る、全力で踊る、そういうシーンは感動を生む。そして、それだけではない何かがあるのだと予は感ずるのだが、それが何か、未だに説明できぬ。
ここは、アカネにやられたな・・・とでもしておこう。知り合いではないんだよよぉぉーーん。
どんぐりころころのレベルから頭一つ抜け出すにはどうするか。
輪島、北の湖は他の関取に比べて格段に強かった。頭一つ 抜け出したからこそ横綱である。
江川は貧打の作新学院で甲子園に出たが、甲子園での防御率は1点未満なのである。だが、江川が1点で抑えても自分のところが0点では試合に勝てぬ。投手としては江川は当時の高校野球の投手に比べてアタマ10個 ぐらい抜け出していたろう。それでも勝てない・・・ところが感動をよんだのか。
バブリーダンスはどうだ。これは演出の、いや、コーチの能力・才能にほとんど依存している。それを体現した当時のダンス部の連中もすばらしい。
ようするに、大きなな声では言わないがスポーツ・格闘技・ダンス等のような他人がやっているのを見て感動するってのは、そりゃあってもいいのだが、少し冷静に考えると、
自分が何かやって、何かうまくできて、それだったら感動は100万倍だろ!!
そこだ。子供の頃に自転車乗れるようになったときの快感!! 逆上がりができたときの喜び。
そういう小さな成功での感動、快感、喜び こそがワシの人生を駆動するのであろう。
ある純文学作家は40年ぐらい前に、四半世紀ぐらい前かな、まあ昔の昔なのだが、
背骨が震えるほどの感動を得たい、だから生きる、という趣旨の事をエッセイで書いていた気がする次第である。
そういうものは一度もないワタクシ。 代わりに憂鬱になる悲しみ、知って意気消沈する事例、漠然たる不安、そういうものは豊富にありまっせ、ワシ!!
えと、まー、どうせ読みてはいないのでテキトーに書くが、最近の新コロで不愉快なのは脊髄反射で国や行政に文句だけいう蓮舫とか芸タレの石井とかハゲの舛添とかハットぽっぽ その他の連中の発言を記事にするスポーツ紙な。そういう紹介記事ではなくて、記者が取材して書けよ。安易すぎるだろ、ばかたれ。
感動する・・・背骨が震えるほどの感動を得たいのであれば行動するが最低でも必要なのだ。他人がやるのを見ていて感動して涙流す・・・・ それは背骨が震えるほどの感動ではないのだ。
というわけだが、書き出しの頃に焼酎飲み始めて、今4杯目 (笑)
posted by toinohni at 17:53| 東京 ☁|
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