KBB, 森 弘之
ボーズ粒子とフェルミ粒子。世の中の粒子は大別するとこの2つに。それがどうしたというんでーーーぃ!!
まず、わからんのは粒子ってなんだべ? クォークはフェルミ粒子、電子もフェルミ粒子。光子はボーズ粒子。原子は・・・・・陽子数によってボーズ粒子にもフェルミ粒子にもなり得る。
うむ。入れ替えによって波動関数の符号が代わるのがフェルミ粒子、変わらないのがボーズ粒子。
うむ。スピンが整数なのはボーズ粒子、1/2. 3/2, 5/2….半整数持つのがフェルミ粒子。
で、粒子ってなんだべ? この肝心な問に対する回答がない。
単独で取り出せないクォークがフェルミ粒子である・・・・ なんでわかる? 取り出せないのに。
結局、粒子ってものはないのでは・・・。いや、分子、原子あたりまでは粒子というイメージはある。古典物理的な意味で。
電子は粒子であり、かつ波の性質を持つ・・・・・そういうの描画はよ? 描けよ!!
というわけで実は本の内容とは関係なく粒子ってなんだろな。素粒子の話ね。想像した。古典物理の粒子なるものはない。電子は粒子ではない。電子は電子の場の振動モードが本質であり、それが他の場や物質と相互作用した場合に我々は点として認識する。そもそも波の性質が本質であり粒子は相互作用の結果の観測に過ぎない。
シュレディンガーの波動一元論を思い出すね。シュレディンガーは波動関数が電子の質量分布をあらわすと考えた。原子核に束縛されている場合にはそれでもいい気がする。だが自由電子はどうなる? 当時、量子力学の論敵であるハイゼンベルクやパウリやらに突っ込まくれた。自遊空間での波動は形が崩れて消える。波動が広がったら電子の大きさがスイカ並みになるぞ、波動が消えたら電子は消えるぞ。実際は消えないだろ。
素粒子は粒子ではない、キリッ) と吉田伸夫は゛素粒子論はなぜわかりにくいか」で書いている。素粒子論の基礎理論は場の量子論であり、素粒子論に興味を持つなら場の量子論を学ぶべきである。うむうむ。
和田純生は場の量子論が量子力学の困難を解消したと書いていた。KBBの「場の量子論とはなにか」 だった気がする。
レオン・レーダーマンは「詩人のための量子力学」で素粒子は真空の泡立ちであると書いた。
うむ。佐藤文隆は、場の振動モードを粒子と言いくるめるのが場の量子論、と書いた。
つまり、結局はそういうことだ。電子は粒子ではない。だから大きさを測定しようとしても無意味だ。大きさの推定では10のマイナス51乗とかの数値はあるようだが、それよりも小さいという表現で。
真空の泡立ちでも場の振動モードでもいいのだが、そういうものが相互作用した結果を我々は観測するのである。観測は古典物理を駆使した装置で行う。
素粒子はいかなる意味でも粒子ではない。真空の泡立ち・場の振動モード、そういう形容が妥当であろう。それが相互作用した結果を観測して我々は点だと認識するのである。それでいいではないか。テキトー。
ボーズ・アインシュタイン凝縮というのがある。ボーズはインド人であり坊主ではない。なんでアインシュタインの名前が続いているかというとボーズの理論を拡張したのがアインシュタインだからである。
このアインシュタインという人は相対論のアインシュタインであるが光量子仮説、固体の比熱、遷移確率、物質波に関してド・ブロイ・アインシュタインの関係式など量子力学での業績も多々ある。
フェルミ・ディラック統計というのがある。フェルミはイタリア人。朝永振一郎著作集の中で朝永は「ヨーロッパの貧乏国のフェルミが・・・・・」と書いている。ワロタ。
ディラックはイギリス人。相対論的量子力学を作った。ディラック方程式で知られるが、反物質をひねり出したのもディラックだ。素粒子はペアを持つ。
量子力学は時代の俊英たち・天才たちが寄ってたかって構築した理論である。量子力学の入門書では天才・ディラックと書かれる事が多い。
昔、30年ぐらい昔、大相撲では天才と称される横綱がいた。左下手を取るとまず負けない。相手は右の上手を取っている。だが天才・輪島は左下手を取って勝つ。そして最大のライバルに怪物・北の湖がいた。体躯が立派で運動神経もよく天才を天賦の才と考えるならば北の海こそ天才だろと思った。天才・輪島と怪物・北の湖。既に二人とも故人である。合掌
ん 何の話だ?
そう、天才の中の天才・ディラック。そして、ライバルは怪物・パウリ。パウリはデカイし性格も悪い(笑)
そういうわけなので、この本は量子力学の簡単な歴史を知ることもできる良書である。
ただ、タイトルはインチキだと信ずる(笑)
posted by toinohni at 12:30| 東京 ☀|
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